小説家になりたい理由〜その2

小説について

小説家になりたかった理由、2つ目は、自分がこの世から死んでしまったときに、自分が生きた証を遺したいと思ったから。

きっかけは、中学2年生のときの2学期の始業式のときのこと。
1年生のときの担任の先生が、交通事故で亡くなったと連絡があったことでした。

物心ついて初めて、「人の死」に触れた瞬間でした。

私達の学年は、先生の告別式に全員で参加しました。
実感が沸かなかった私は、告別式では涙が出なかったのを覚えています。
ですから、友人には責められました。
「悲しくないの?」
「なんで、泣いてないの?」 
元担任の先生は大好きでした。悲しかった、もう会えないのが寂しかった。
だけど、初めて触れた「死」が、私の中にうまく処理されずに、ふわふわと浮いてしまったんです。

その後、時間が経過し、ぽっかりと浮かんだ「元担任の先生の死」を実感した出来事ありました。
それは私の中学生の卒業式の夜のこと。
夢の中に、その元担任の先生が出てきてくれたのです。
明るい日差しが差し込む中、中学校の校門前に先生は立っていました。
いつものようにジャケットも着ないでネクタイもせずに。
「よっ!」右手を高く掲げ、少し困ったような、にんまりと嬉しそうな笑顔を浮かべて。
まるでまだ、生きているかのうように。

先生の夢を見て、先生の「よっ!」という声を聞いた途端、私は夢から覚めました。
そして、そのときに思いました…「会いに来てくれた」と。
夜中に大きな声を上げて泣く私に、母が慌てて部屋に入ってきて、抱きしめてくれたのを覚えています。そのときに、ようやく「死」というものがなんなのか考え始めました。

「死」は終わりです。そこから「新しい思い出」は更新されません。
自分を知っている「誰か」が、自分を覚えていれくれる限り、私が存在した証明にはなりますが、その誰かもいなくなってしまっては、私が生きた証がなくなってしまうと思ったんです。

いわゆる、人は二度死ぬということ。一度目は肉体の死、二度目はその人が忘れられたとき。

それに気づいたとき、私は怖かったんです。
いつか何も残らない、消えてしまう(忘れられてしまう)のであれば、なんのために生き続けるのか。
何か私自身が、世界に生きた証を遺す方法はないのかと。

そこで見つけたのが、小説を出版することでした。
文豪たちの名作は、時代を超えて語り継がれる…そこまでの名作を書けなかったとしても、自分が生きた証を遺す手段として、小説家になる道を目指したんです。

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